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執筆者の写真Shunta Takahashi

日清のカップヌードルがアメリカで「学生寮の定番の食べ物」になるまで【クーリエ・ジャポンからの抜粋-Vol.209】

コンビニエンス・ストアでカップヌードルの容器を見ると、大学寮や安くて簡単な食事を思い出すかもしれない。


だが、この象徴的なパッケージがコスモポリタニズムを表していた時代があった。この簡単に持ち運べる食べ物は、アメリカのテイストが加わった日本の大量生産食品という可能性を象徴していたのだ。


カップヌードル(Cup Noodles)は、1971年9月18日に翻訳ミスのため「S」が省かれた英語名(Cup Noodle)で発売された。白、赤、金色のカップからフォークで直接食べる携帯用インスタントラーメンだ。


安藤百福のひらめき

カップヌードルは、インスタントラーメンを発明したのと同じ人物、1948年に日清食品を設立した安藤百福が生み出した。


安藤は日本統治時代の台湾で生まれ、1933年に大阪に移った。戦禍で荒廃した日本で、安藤は闇市の屋台に並び、丼によそわれた安価なラーメンを求めて並ぶ人々の姿を目の当たりにした。麺は、アメリカからパンを作るために提供された小麦粉で作られていた。パンは腹持ちはするが、日本の食生活ではそれほど一般的ではなかったのだ。


安藤は家庭で手軽に食べられる麺を作りたいと思い、自宅の裏庭に建てた小屋で実験を行った。

たくさんの失敗を経た後、1958年にひらめきがあった。妻の仁子が天ぷらを揚げているのを見て、油で水分が飛んでいることに気付いた。


揚げて乾燥させた麺を茹でれば、再び水分を吸う。調味パウダーや乾燥した具材を加えれば、味の組み合わせは無限に広がる。安藤が最初に選んだのはチキン味だった。チキンスープはコクがあり、栄養価が高く、アメリカ的、というイメージがあったからだ。


「チキンラーメン」は、当時のうどん1杯の6倍の値段だったため、なかなか投資家が集まらなかった。そこで、安藤は試食会を開いて一般の人に直接商品を紹介することにした。その結果、チキンラーメンは、戦後の日本で最も普及した食品の一つとなった。


しかし、1960年代半ばになるとチキンラーメンや、1964年に発売されたインスタント・ス

パゲティの「スパゲニー」などの派生商品は、市場が飽和したこともあって、日本での販売が減少。安藤はインスタントラーメンの新たな市場を求めて、アメリカに進出することにした。


当時のアメリカでは、牛肉と野菜を鍋で調理したすき焼きなどの日本食が、異国情緒を感じさせながらも一般的なアメリカ人の口に合うということで流行していた。安藤は、インスタントラーメンにも同じことができると考えた。


1966年、安藤はチキンラーメンの宣伝のために渡米。そこで、アメリカ人が鍋で作って丼に盛り付けるのではなく、乾麺のパックを割ってカップに入れ熱湯を注いだことに驚いた。

帰国した安藤は、このアメリカの調理法にヒントを得て、日本で売れる商品を作ろうと考えた。

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