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執筆者の写真Shunta Takahashi

相手のモノの見方を想像する!

あなたの部屋には長い棒がある。どうやら紙になぞると文字が出てくる。 そう、「鉛筆」だ。


でも一方で赤ん坊はこの僕たちが鉛筆だと認識している「棒」を振り回したり、舐めたりしてる。彼らにとってはどうやら、この棒は鉛筆ではなく「おもちゃ」らしい。


じゃあ、ここで考えて頂きたいのだが、あなたと赤ん坊が部屋から出て、残された「棒」は果たして鉛筆なのだろうか、おもちゃなのだろうか?


「鉛筆」に決まっている!って思った人が多いと思うが、それは社会が作り上げた虚像だ。つまりみんなが鉛筆だと思っているから、この棒をみた時に多くの人は「鉛筆」だと認識するのだ。


逆に社会で一般的に「おもちゃ」として使われていたら、あなたは紛れもなく「おもちゃ」と答える。


つまり何が言いたいか?というと、これに限らず全ての事象において、自分と他人は同じように事実に対して同じように見えているというわけではないのである。


話す時は相手のパラダイムを意識する


ということを考えた時に僕は他人と話をしていて、イライラすることが少なくなった。なぜなら相手は自分と違う光景が見えているということがわかったから。


つまり「なんでこの人はわからないんだ!?」と思うのは当たり前だ!というスタンスだ。なぜなら同じように見えていないから。


今までの知識や経験、付き合ってきた人によって全く同じ事実をみても異なって見えてしまう。極論をいえば、ある人には目に見えてもある人には全く見えていないということが往々にしてあるのだ。


それなので、常に相手はどういうパラダイムで世界を捉えているか?という意識をしながら、その人たちのパラダイムのなかで最大限伝わるのはどうしたらいいか?というスタンスが正解なのではないか、ということを考えたのである。

それによってコミュニケーションにおけるストレスというのは格段に減る。


自分が判断する時は自然の摂理に従う

逆に自分はどういうパラダイムが大事か?という点については、自然の摂理に従って物事を判断するというスタンスが大事だと考えている。


例えば、週末に彼女とデートをするか、資格試験の勉強をするか悩んだとする。その結果、どちらを選んだことによってどういう結果が自然として起こるか?というのを考えるのだ。

例えばデートをとったことで、資格試験の勉強を学ぶ機会を失う。逆に資格試験の勉強を取

ることで彼女との信頼や思い出を構築する機会を失う、ということだ。


それらを天秤にかけて考えるのである。

例えば学ぶ機会を失うけど、来週にカバーしようとか。あるいは彼女との信頼を別に構築するために電話をして謝って今度あった時にプレゼントをあげようとか。


つまり自然の摂理の結果として起こることをまず選ぶ。そして、その選んだことによって起こるマイナスをカバーするためにできることを考えて実行する。


そうすると、全てはうまくいく。そう思うのだ。


それを自分の欲求やパラダイムで判断すると「こんなはずじゃなかった」という出来事が起こるに違いない。


でも自分が行動して起こるものは結局は自然の法則に基づくものなのだ。

そのことをどれだけ意識するか?というのは凄く大事なのではないだろうか?

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